ホーム > 鹿児島の歴史遺構(錦江町、天保山町、与次郎、下荒田〜真砂、南郡元町方面)
22.武村船手跡 ( たけむらふなてあと ) 所在地 鹿児島市新屋敷町 |
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江戸時代、付近が武村の飛び地であったので、武村船手と呼ばれた。「三国名勝図会」には、明暦3(1657)年に春日神社付近からこの地に移されたとある。また船魂神社は、島津光久が貞享5(1688)年に勧請したものともある。 |
23.向江船手跡 ( むかえふなてあと ) 所在地 鹿児島市下荒田 |
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武村船手からの分立だが、分立の時期は定かではない。武村船手の船渠(ドック)が不便なため、天保山の内側に分けたといわれる。この船手が幕末から明治にかけての薩摩藩の最後の船手である。現在「御船手跡」の碑があるところに、甲突川からの掘(前期船出入渠)にかかる御船手橋があったと思われる。 |
24.御陣屋跡 ( おじんやあと ) 所在地 鹿児島市天保山町 |
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付近は天保山調練場として、洋式調練、砲術、騎兵、工兵などの訓練が行われていた。安政5(1858)年7月8日、28代島津斉彬はここでの大演習に参加し、その後高熱で倒れ、18日に亡くなった。 |
25.古田ケ浜公園 ( ふるたがはまこうえん ) 所在地 鹿児島市天保山町 |
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周辺にある天保山は天保年間の埋立地、与次郎ヶ浜は塩田だった。この古田ヶ浜はその名前のとおり、かつて海岸線だったところで、現在はその地名はなく、公園の名前のみで伝えられている。 |
26.天保山砲台跡 ( てんぽざんほうだいあと ) 所在地 鹿児島市天保山町 |
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天保山は天保12(1841)年ころ、甲突川下流の出水を防ぐため、河床を浚い、その土砂で埋め立てられたところである。嘉永3(1850)年には砲台が築かれ、薩英戦争で砲撃の火ぶたがきられたのはここであった。 |
27.与次郎ヶ浜の碑 ( よじろうがはまのひ ) 所在地 鹿児島市天保山・与次郎 |
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天保年間、塩づくりをしていた荒田村の平田与次郎は、藩命により赤穂塩田を視察。その後この一帯に約10万平方メートルに及ぶ塩田を開き、天保14(1843)年から塩づくりを始めた。平田与次郎は弘化3(1846)年に亡くなっている。 |
28.塩田跡 ( えんでんあと ) 所在地 鹿児島市下荒田 |
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荒田川河口の流域で、文政9(1862)年ころの記録では、荒田浦屋敷数20、人口88とある。江戸時代の初めにはすでに製塩業があったと思われ、荒田川左岸には、古田・浜塩田、右岸には上の浜塩田があった。 |
29.海浜院碑 ( かいひんいんひ ) 所在地 鹿児島市鴨池新町 |
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明治38(1905)年、結核の大家といわれた加藤好照は、医師中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に結核治療所・サナトリウムを建てた。これが海浜院で、広さは約1万坪あり、そのパノラマ模型は万国博覧会で特別賞を受けたといわれている。大正12(1923)年に日本赤十字社が引き継ぎ、現在は平川に移転している。 |
30.牛掛灘の古戦場 ( うしかけなだのこせんじょう ) 所在地 鹿児島市南郡元町 |
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正平2(1347)年、南北朝の争いの中で、島津貞久(5代当主)は、谷山郡司・平忠高を討つ為波之平付近に進軍したが、貞久の退路を絶とうとする忠高の弟裕玄がここ牛掛灘に陣を固め、貞久は苦戦を強いられた。最後は和泉忠直(貞久の弟の子)の援軍がきて、貞久は勝利をおさめることができた。 |